日本最初のプリマ・ドンナ 三浦環銅像が寄贈されました!
20世紀に日本が生んだ世界的オペラ歌手「三浦環」をご存知でしょうか。
世界を魅了した歌姫である環は、御前崎市とも少なからず関係のある人物です。
この度、三浦環像の建立に伴って、彼女と御前崎市とのつながりについて紹介します。
三浦環銅像について
日本最初のプリマ・ドンナの功績を称えて、ゆかりの深い御前崎市に三浦環の像を寄贈されるはこびとなり、令和7年2月8日に建立されました。建立場所としては、市内の文化芸術の発信地でもある御前崎市民会館入口に建立しております。ぜひご覧ください。
寄贈団体:三浦環像建立実行委員会
三浦環とその生涯

作曲家のプッチーニに「世界でたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さん」と褒め称えられ、世界各地で2000回に及ぶオペラ「蝶々夫人」を演じた環は、父・柴田熊太郎(現・御前崎市出身)と母・永田登波(現・菊川市出身)の長女として、1884年(明治17年)に東京で生まれました。
幼い頃から日本舞踊や長唄を習い、1900年(明治33年)に東京音楽大学(現・東京藝術大学)に入学しました。滝廉太郎などに師事され、卒業後は同学の研究科で声楽を指導しました。
1913年(大正2年)に2人目の夫である三浦政太郎と結婚、彼の故郷である掛川市でしばらく生活をし、翌年、夫婦でドイツに留学をしますが、間もなく第一次世界大戦が勃発し、英国へと移動します。環は、英国の音楽関係者の支持を受け、ロンドン最高峰の舞台で講演することとなります。この好評を得て、様々な音楽会への出演依頼が殺到することとなりました。
そうしたなかで、「マダム・バタフライ」への出演を依頼され、1915年(大正4年)のロンドン歌劇場での蝶々夫人の初主演を皮切りに大成功を収めました。その後、渡米し、各地で蝶々夫人に出演、以降も環は欧米を拠点に世界各地200都市での公演を重ね、1935年(昭和10年)に日本に帰国しました。
帰国後も環は国内各地で独唱会を行うなど、精力的な音楽活動を行っていましたが、1946年(昭和21年)に63歳(数え年)でその生涯を閉じました。
三浦環と御前崎市とのつながり
三浦環の父・柴田熊太郎は、現・御前崎市下朝比奈出身であり、その母であるきくは「朝比奈小町」や「鶯小町」と称えられる程の村随一の美声の持ち主であったとされています。世界を魅了した環の美声はもしかしたら祖母ゆずりだったのかもしれません…
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更新日:2025年02月13日